豊かさ。ひとが、死ぬまで求めるものじゃないかとRegainは考えてるのですが・・
最近、仕事の舞台を都内と地方の複数に持つ事が増えてきてちょっと気づいたことがあります。
Regainの場合、医療系ベンチャーなので、販路構築だったり個別の病院訪問だったりを繰り返しながら日々の活動を過ごしている訳ですが、以前 丸の内で仕事をしていた際にはほとんど持つことのなかった「時間の流れ」というものを、身をもって感じるようになってきました。
感じるようになったと言っても、それに違和感を感じるのではなく、「あ、ここはこういう時間の流れ方だからこう接するかな・過ごすかな」みたいなおよそ文化人類学の学生みたいな感覚に近いといえるでしょうか。
- 切れ目無く物事の段取りをつけて、効率よく進める時間の流れ方。
- 高速道路のインターを降りて、なだらかな道路とともに変わりゆく時間の流れ方。
- 地方の病院で、窓から眺める景色を、先生とは言葉すくなに眺める時間の流れ方。
- リハビリに疲れた子どもの寝顔を、ただそこにある愛情の対象として見つめる時間の流れ方。
それらを週末、自宅にかえって振り返りながら(座禅のように)、自分の呼吸や体の中の意識を感じるような時間の流れ方。
それぞれの時間は、今そこにあってすぐに過去のものになってしまう「なまもの」。
どの時間においても、自分にとって自由な時間かどうかは人により全く異なります。
そして、時間の束縛性というのは、持っているお金の大きさに応じるのではと思ってもいたのですが、どうやらそうでもなさそうだということに少し筒気づいてきました。
充実した時間を過ごして(内面の充足)たり、自分のエネルギーを解き放つような・人に精神的な力を与えられるようなエネルギー(=「いのち力:造語です」)を使っているときは、
当たり前ですが時間に拘束されている気もしませんし、むしろそうした満足感は自分の次の活動の源泉になってくれるような気がします。
これ、もらえるお金や、持っているお金の量がどれだけたくさん有っても、そうした充足感が得られるような「いのち力」を使った活動をしてなければ、充足感はすごく少ないようにも思います。これ、海外駐在をしてる時に結構感じました。
赴任中は手当も出るので金銭的には不自由ない(それでもたいした事はないけど)のですが、「やらされ感」で仕事や活動をしてたりするとお金を浪費したあげく、むなしさだけを感じることがままあったように思います。
言いかえると、豊かさというのは時間とお金と「いのち力」のかけ算ではないかなあと(=お金は0でない限りは他のもので補完できる)。
今はベンチャーに身をおいているので当然 稼ぎは少ないですし、それを正当化する目的でこのエントリを書いてる訳では全くないんですね。
これからの時代の生き方において求める「豊かさ」というのは、きっと、どの地域においても最大化できるものなんじゃないかなあと。
これが、「今を生きる」豊かさの尺度だとすると、将来に向けた「豊かさ」の定義もあるはずですよね。
自分のこの先、何を「豊か」として生きてゆくのか・・その延長線上には、きっと物質的なものはないんだろうなと思っていたら、こんなブログに出会いました。
イロコイ族は7世代先のことを考えて、物事を決めているとか。
今を生きるにあたって、そしてこれからを生きるにあたって。
およそこれまで商社や家電メーカーなど、物・欲みたいなものの権化的な業界で仕事をしていた反動なのかもしれませんが、これからは「豊かさ」を感じながら仕事をできる環境や組織が、「はたらきたい」と思わせる重要な要素になるのかもしれませんね。
駄文、失礼しましたー(苦笑)